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日本ルイ・アームストロング協会からサッチモ・ニュース号外!!!(2001.9.1)
ニューオリンズ国際空港の新名称が、市議会で可決されました。
新名称はルイ・アームストロング・ニューオリンズ国際空港!!

ニューオリンズ市議会は、7月5日、マーク・モリアル(Marc Morial)市長から提案されたニューオリンズ空港の名前の変更に関する法案を、全員一致で可決した。1971年7月6日に無くなったサッチモ。その命日の1日前に可決、命日に発表、と言う心憎い演出!! 生誕100年に当たる、2001年8月4日の2日前、8月2日に、空港で一大セレモニーが行われる予定!! ハッピー・バースデイ・サッチモ!!!

1900年7月4日、アメリカの独立記念日に生まれたとされていたサッチモ。
実は、この日が間違いで、彼にもう一つの誕生日があったことが10数年前に発見された。1901年8月4日という、サッチモの本当の誕生日から100年目、2001年のサッチモの夏が近づいている。ニューオリンズからは、素晴らしいニュースが伝わってきた。現在のニューオリンズ市長マーク・モリエル氏はあのジャズのパイオニア、キッド・オリーの親戚にあたる。モリエル市長の母がオリーの妹に当たり、オリーはモリエル市長の叔父さんなのだ。なかなかのやり手、若手市長で、アイデアマン。今回は、サッチモの100年を記念し、ニューオリンズ国際空港を、“ルイ・アームストロング国際空港”と命名する法案をニューオリンズ議会に提案した。一部の勢力の反対もあったが、法案は真場一致で採択された。8月2日、サッチモの誕生日の2日前に祝賀式典が大々的に行われる。ルイ・アームストロング国際空港のニュースは、他のニュースをおしのけて世界中で大々的に報道されることは間違いない。

1931年、ニューオリンズに里帰りしたサッチモは、現在の空港の側にあったサバーバン・ガーデンからのラジオ放送に出演した。その時マイクを握っていた白人アナウンサーは黒人を紹介しなければならない事に戸惑い、こう言ったという。“レディース・アンド・ジェントルマン、申し訳ありません、私にはとてもこの’ニガー’を紹介する勇気はありません、、、、。”  70年の時が流れ、空港に彼の名が付く様になるとは!!サッチモも,天国で“オー・イエス!!”と叫んで、高らかにトランペットを吹き鳴らしているに違いない!!


ニューオリンズのジャズ王、“サッチモ”

     外山喜雄(ジャズ・トランペッター、日本ルイ・アームストロング協会会長)


”ワット・ア・ワンダフル・ワールド・オー・イエス!”
このサッチモのしわがれ声が世界中に共感を呼び起こしたのは、1987年映画『グッドモーニング・ベトナム』の大ヒットによってだった。日本では、ホンダ、シビックのCMとして、この曲が使われヒットしたが、世界中でのヒットは実にサッチモの死後16年、文字通り時代を超え、世代を越えての不死鳥のごとき復活であった。
ハロー・ドリー、ブルー・ベリー・ヒル、バラ色の人生、ア・キス・トゥ・ビルド・ア・ドリーム・オン、聖者の行進……。サッチモのミュージックは、今、再び熱い注目を浴びている。特に若い人たちの間で、サッチモの世界は急速に再認識されはじめ、永遠の命を持ちつつあるとも言える。

黒人奴隷の孫として生まれ、差別と貧困を乗り越え、20世紀を代表する偉大な音楽家となったサッチモ。彼はアメリカ音楽に大きな影響を与えたのみならず、アメリカの人気者となり、そして死した後もなお、世界に愛を訴える音楽家として、ワンダフルワールドの歌声で天国からメッセージを送り続けているのである。

ルイ・アームストロングは1900年7月4日、アメリカの独立記念日にニューオリンズに生まれた---と信じられていた。しかし、1980年代になって、ナントその日付が間違っていたことが分かった。
1900年頃にニューオリンズで初めてジャズを演奏し始めたと言われている、トランペッターのバディー・ボールデン。この伝説のジャズ王のリサーチをしていたある研究者が、偶然教会の洗礼記録の中に、ルイ・アームストロングの名前を見つけたのである。新発見によると、ルイの誕生日は、今まで信じられてきた日付の約一年後の1901年8月4日、本人も死ぬまで知らなかった新事実であった。当時貧しかった黒人の多くの家では、誕生日が不明なことが多く、子供達の生年月日を独立記念日やクリスマス、大晦日や元旦として届けていた。ルイもそうした家庭の子どもとして生まれたのである。

1900年、1901年どちらがルイ・アームストロングの誕生日なのか?
ニューズ・ウィーク誌はこう書いている。
「事実はどうあれ、アメリカ音楽に大変革をもたらした天才ジャズプレイヤーの誕生日には、1900年の独立記念日がふさわしい!!」

依然彼を愛する人々の間では、彼の誕生日は1900年7月4日だ。サッチモに二つの誕生日が有ることを、これは良い機会とばかり、アメリカでは2000年7月4日から2001年8月4日まで、13ヶ月間にわたってサッチモ生誕100年を祝うイベントが並んでいる。いかにもジャズの王様にふさわしい生誕100年ではないか。

私がサッチモの楽しい音楽に初めて触れたのは、映画『五つの銅貨』を通してである。ダニー・ケイ扮するコルネット奏者レッド・ニコルスのヒューマンな物語、そして実にアメリカ的なデキシーランド・ジャズと、“サッチモ”ことルイ・アームストロングのコクのある音楽。あれから40年、バンジョーとピアノ奏者の家内、外山恵子とともにジャズやってきて、気が付くと生活まですっかり『五つの銅貨』を実践してしまっている。 今、私はジャズクラブや東京ディズニーランドなど、アメリカ人の女性歌手と組んで仕事をする機会が非常に多い。彼女たちは決まって、「ヨシオ、あなたたちの音楽やギャグのもとは、五つの鋼貨のダニー・ケイやサッチモなのね。あの映画を見ていると思い当たる所がたくさん出てくるわ」と言う。わかってくれればありがだいと思うのと、まあせいぜい、この程度しかできませんという、おはずかしい気持ちとが半々である。

高校時代に見た映画『五つの銅貨』以来のサッチモ・フリーク。サッチモと私の付き合いはもうかれこれ40年ということになる。といっても、私は彼と“個人的な”付き合いがあったわけではない。しかし、私達が夫婦で5年間、ジャズの故郷ニューオリンズに移り住み、黒人スラムや黒人教会に出入りし、黒人のパレードやジャズ葬式の音楽に夢中になった動機が、サッチモの音楽に対する信仰にも似た憧れから出ていることを考えると、私がサッチモを“知らない”ということは、信じられないことのような気がする。いろいろな外国人と付き合ってきた中で、私が一番よく知っている外国人は、“ルイ・アームストロング”なのである。

あるインタビューの中で、ルイ・アームストロングはこう言っている。
「美しい音楽といえば、一度ニューオリンズの葬式を見てほしいもんだ。ジャズ葬式で演奏するオンワード・ブラスバンド…。まるでオペラの歌手が心をこめて歌うように、悲しさや美しさを、心から音にこめるのさ。今だって、ラッパを吹きながら目をつぶると、まぶたにニューオリンズの思い出や、師匠のパパ・ジョーのラッパのフレーズが浮かんでくる。私はいつだって、ニューオリンズの音楽を演っているのさ。」
ルイがニューオリンズ生粋のブルースを歌うときも、ポピュラーな「ハロー・ドーリー」で聴衆を沸かせる時も、そこには一貫した何かが流れている。
私は、彼の歌が、音楽が持つ愛と芸術性が、私達が暮らしたあの街、ニューオリンズの温かいフィーリングに支えられていることを感じてならない。

ルイ・アームストロングは、一生、彼の音楽に対する信念と誠実さを失うことはなかった。どの時代の演奏をとってみても、彼の音楽からは、必ず喜びの叫びが聞こえてくる。そして私は、この彼の崇高で芸術性高く、こよなく楽しい愛と喜びの音楽が、今世紀はじめのニューオリンズの黒人街の貧困の中から生まれてきたことに、大きな驚きど興味を感じるのである。

1964年、サッチモが「ハロー・ドーリー」のヒットをひっさげて再来日したときのできごとは、一生忘れることができない。
当時私は早大政経学部の学生で、ジャズ研究会ニューオリンズ・ジャズ・クラブに所属し、トランペットを吹いていた。昼夜コンサートの幕間、警備の目をかいくぐってバックステージに出た私は、何とかサッチモの楽屋を探り当てドアをノックした。中からあのしわがれ声で”カム・イン”。ドアを開けると目の前に意外と小さなサッチモがいた。タドタドしい英語で何といったか憶えていないが、気がつくとテーブルの上にふたのあいたラッパのケースが、そして中には、金色にかがやく彼のラッパがあった。見ていいですかときくと、例の声で”イエス”ときた。興奮のせいか手に持った彼のラッパは、羽のように軽く感じた。そして、図々しいことに、私はその天使の羽根でも生えているかのように軽い、金色のトランペットを口にあて、吹いてしまったのだ。当時得意だったルイのホット・ファイブの”バーベキュー料理で踊ろうよ”の有名なソロをやろうとしたのだが、ルイのマウスピースは私のよりだいぶ大きく、うまく行かなかった。一分くらい彼のラッパとカクトウしていただろうか。ついに、例のしわがれ声とともに、ラッパは取り上げられてしまった。私は、「サンキュー、コンサートは素晴らしかった。」とか言うと、またコチコチになって楽屋から出てきた。こうして私とサッチモの”個人的”な接触は終わったのである。

若さゆえの度胸と言うか、若さゆえの無知と言うか。何故彼が、突然侵入してきた見ず知らずの青年に、勝手にラッパを吹かれて黙って見ていたのか不思議である。サッチモは、彼の音楽に対する私のひたむきな一生懸命さを感じとってくれていたのかも知れない。

あれから35年。サッチモのほとんどのレコードを空でおぼえ、サッチモの映画フィルムのコレクターとなり、サッチモの様に吹き、サッチモの様に歌っている私を、天国のサッチモはきっと見ていてくれると思う。

最近、若手のジャズメンの間でサッチモへの回帰がさかんだ。ニューオリンズ出身の若きジャズスター、ウィントン・マルサリスはこんなことを言つていた。
「ルイのトランペットのもつ、あのメロデイックな歌い方のニュアンスは、どんな速い技巧的なフレーズよりもすばらしい」と。
1950年代、サッチモのオールスターズで演奏したクラリネット奏者のピーナッツ・ハッコーは、初めでバンドに加入した時の思い出をこう語ってくれた。
「ルイのバンドに入る前は心配でね、ルイに聞いたのさ。どんな風に吹いたら良いですかとね。そしだらポップス(オヤジ)は何と言ったと思う。『何も心配することはないよ。ジャスト・プレイ・フロム・ユア・ハート、、、、心をこめて吹けばいいんだよ』ってね。」


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    ウォール・ディズニーにそれぞれ捧げたCD、
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       『デキシーマジック・ビビディ・バビディ・ブー』キングKICJ-410
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プロフィール

外山喜雄、恵子(とやまよしお、けいこ)
        ────外山喜雄(トランペット、ボーカル)、恵子(ピアノ、バンジョー)

デキシー、スイング等のオールド・ジャズに生きるジャズ夫婦。
外山喜雄は1944年、東京生まれ。中学二年の頃からジャズに興味を持ち、
トランペットを購入。早稲田大学政経学部入学後すぐにニューオリンズ・ジャズ・
クラブに入り、ピアノ・バンジョー奏者の夫人、外山恵子と出会う。
卒業後結婚。損保会社に就職した頃に来日したジャズ楽団によってジャズ熱が再燃。
68年夫婦でブラジル移民船に乗り込みニューオリンズへ。以後、通算5年に渡り、
ジャズの故郷でジャズを学び、ヨーロッパ、アメリカ各地を演奏旅行する。

現在は、「外山喜雄とデキシーランド・セインツ」(75年結成)のライブ、
コンサート活動や東京ディズニーランドでの演奏を中心に、随筆、ジャズ評論等の
執筆活動も行っている。

日本ルイ・アームストロング協会(ワンダフルワールド・ジャズ・ファウンデーション)会長。
ジャズ16mmフィルムのコレクターとしても知られる。
ニューオリンズ市名誉市民。
著書に『聖者が街にやってくる』(冬樹社)、訳書に『独断と偏見のジャズ史』スイングジャーナル社がある。

外山喜雄のボーカルは、あのルイ・アームストロングにそっくり。
”日本のサッチモ”と呼ばれ、日本コロンビア、キングからCDが発売されている。